十数年学校教育に関わっていると…いや、学生時代も入れると30年以上にもなりますね笑
イヤでも目にしてきました、そう「罰」の場面。
昔ながらにアニメ「ドラえもん」ではのび太くんが廊下に立たされ、「サザエさん」ではカツオがテストの点数が悪いことで叱られる。
私が子どもの頃ももちろん、鉄拳制裁は当たり前、今では考えられないような体罰が学校現場でも当たり前のように横行していました。

そもそも「体罰」という言葉すらなかったようですね💦
ひるがえって現在、「体罰」は禁止されていますが、果たしてそれ以外の「罰」はどうなのでしょう?
先生の皆さん、保護者の皆さん、あなたがしているその「罰」は子どもにとって本当に必要なものなのでしょうか?
大人になればわかりますよね?誰だって「罰」はイヤなものじゃないですか?
「イヤなこと」をなぜ子どもに与えるのでしょうか?
つまり「罰」=「イヤなこと」に変わる「?(何か)」=「いいこと(本人にとって)」はないのでしょうか?
少し考えていきたいと思います。
- 教育に罰は必要なのか?
- 罰とは教育的なのか?
- 罰に変わる何かはないのか?
「罰」が必要と考える理由

罰って自分が受けるのはイヤなものですよね。
自分から罰を与えられたい、という人はほとんどいないかと思います。
でも、ひとたび罰を与える側に回ると…不思議なもので、今回の罰は本人の成長のためには必要なのだ!と息巻いて不要なものとはまったく考えられなくなるのです。
なぜこのような認識の違いが出てしまうのでしょうか?
これには以下の3つの考え方があると思います。
- 痛い目に合わないとわからない
- 悪いことをしたら「罰(バチ)が当たる」ことを体験的に知らせる
- 周囲への見せしめ
①痛い目に合わないとわからない
1つ目の理由に、痛い目に合わないとその行為が悪いこと・ダメなことだと理解できない、というのがあると思います。
痛い目を見せることで、「もうそんな痛い思いをしたくない」と感じさせ、その行為に対する制限を行うということでしょうか。
そして、それが本人の成長のためには必要なステップなのだと。
②悪いことをしたら「罰(バチ)が当たる」ことを体験的に知らせる
2つ目の理由に、悪いことをしたら「罰(バチ)が当たるんだぞ」と。因果応報だと体験(経験)させる、というのがありますね。
何かいけないことをしたとして、その後本人に悪い出来事が起こったら、「ほら、罰(バチ)が当たった」と。
何かしら神がかり的なものとしてこじつけているのでしょうか?
③周囲への見せしめ
3つ目の理由に、周囲への見せしめ、なんてのも考えられます。
1対1の場面ではなく、1対他あるいは複数対複数の場面で、なおかつパワーバランスが一方に片寄っている場合に、しばしば見受けられる場面ですね。
学校現場では未だに一部ではびこる考え方です。
悪いこと・間違ったことをしてしまった一人の子を、周囲に見えるところで徹底して罰を与える。
場合によっては怒鳴りつけたり、体育会系(?)の厳しいところではもはや体罰であったり…。
周囲はそれを見て、自分はあんな風にはなりたくない、と感じて同じような行為はしなくなる、という考え方でしょうか。
その「罰」は教育的なの?

このように見てきた罰の理由ですが、果たしてそれらは「教育的」なんでしょうか?
思い込みであったり、こじつけであったり、ただただ萎縮させてしまうだけの行為であったりしないでしょうか?
罰の多くは教育的にならない
①痛い目に合わないとわからない について
子どもは痛い目を見ないとわからないのでしょうか?
確かにそういう側面があるにはあると思います。
しかしその罰の与え方は、恐怖心により行動を支配し、大人の目を伺っておっかなびっくり振舞う子を育ててしまっているにすぎません。
大人だって上司に嫌な思いをさせられ続けると、どんどん萎縮していってしまいますよね。
そんな状態で、大人だって伸び伸び仕事ができ、伸び伸びやりたいことができるでしょうか?
答えは明らかですよね。
つまりこの考え方は、子どもを伸ばすという観点からかけ離れ、子どもを小さく育て、制限をかけ続けているのであって、決して本人のためにはなっていない、ということなんです。
②悪いことをしたら「罰(バチ)が当たる」ことを体験的に知らせる について
これについては本当にただのこじつけにしか感じません。
仏教の考え方の「御仏の罰」があるのでしょうが、「罰(バチ)が当たる」ことで当人は自らの行いを是正していくでしょうか?
多くの場合は「運が悪かった」程度で済まされてしまいませんか?
つまりこれは結果論であって、原因論ではないのですね。
教育的にはなり得ないですね。
③周囲への見せしめ について
未だに学校現場に残る考え方で、大人がするにあたって個人的にはもっともありえないと考えられる行為です。
見せしめる必要は本当にあるのでしょうか?
中には悪びれもせず、むしろ自分の行為を誇り・ひけらかし、そんな罰を与えられても意にも介さない、つまり効果がない子もいるでしょう。
その点から見て、まず何の教育効果もあげられていないと言えます。
まあ、そんな子は少数派であると考えられ、その他多くの子は自らの行為を恥じ、反省や後悔の念に駆られているでしょう。
(学級によっては非行が是とされる環境があるかもしれません。それは、その子の本心ではなく環境がそうさせているのです。)
にもかかわらず、みんなの前で祀り上げられてしまった当の本人は、心に深い傷を負い、大人のことを信じられなくなっていきます。
そして、周囲の子たちに対しても劣等感を抱き、信頼関係を築くことができなくなっていきます。
本人が反省し、そのことを誰かに指摘された時点で、十分罰は与えられているのではないでしょうか?
「罰を与えること」とは、罰を与える側の満足感のためではなく、罰を与えられる側が次につなげて行動を是正し、より成長を促されるために使われるべきことです。
加えて周囲にいた、見せしめを見た子たちは自分がそうならないようにと萎縮します。
また、その見せしめられた子に対して侮蔑の目・軽蔑の眼差しを向けていくのです。
本人に取っても周囲のとっても、いいところが全くないと言っていいほどの行為だと思います。
「罰」に変わる方法は?

では、罰とは絶対悪なんでしょうか?
罰を与えてはいけないのでしょうか?
これには2つの回答があると思います。
「罰」を使わない方法
罰を与えるそもそもの目的は、間違った行為や是正させたい行いを本人や周囲に自覚させ、次の成長へのステップにすることにあります。
そう考えるならば、「罰」以外の方法でもその目的を達成することはできないでしょうか?
1つには「褒める」ということです。
人間はネガティブな言葉ばかりを耳にしていると、行為・行動もどんどんネガティブになっていきます。
一方、日常的にポジティブに触れていると、積極的で挑戦意欲にあふれる前向きな行いが増えていきます。
ネガティブな方向に走る必要がなくなるんですね。非行行為などをしている暇がない、とも言えるでしょうか。
その子自身がすぐに変われなくても、周囲の子を褒めていくことで行動を価値付け、集団としてより良い方向に導くことができます。
人間は環境によって左右されるものなので、1対1で相手を変えようとせず、集団を方向づけて自然と変化することを促すことがもっともな近道になります。
「罰」を使わなくても、子どもたちの思考や行為を変容させる手段はある、ということですね。
「罰」の考え方を変えてみよう
また、そもそも「罰」の見方・考え方を変えてみましょう。
「罰」は与えられるものではなく、自ら感じ取るもの、とするのです。
「罰」に満足するのが与える側であってはなりません。
受け取る側が「罰」を感じて次につなげることに満足して、初めて本当に意味があるのです。
先に示した通り、罰を本人が感じられればそれ以上はもう必要ありません。皆まで言うな、ですね。
まとめ
教育に罰は必要なのか?
→罰を与える側と受ける側の認識の違いが、間違った必要性を感じさせてしまう3つの例
①痛い目に合わないとわからない
②悪いことをしたら「罰(バチ)が当たる」ことを体験的に知らせる
③周囲への見せしめ
罰とは教育的なのか?
⇒罰の多くは教育的にならない
罰に変わる何かはないのか?
①罰を使わない方法
②「罰」の考え方を変える
不必要な罰なんて子どもに与えずに、子どもたちのより良き成長のために日々がんばりたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
今よりも一歩でも前に進むために、共にがんばりましょう!
コメント