やさしい先生とこわい先生、どっちがいいの?

教育

教師になった時、多くの先生方が悩む1つのテーマとして、自分はどんな教師になるべきなのか?というのがあります。

そしてその中で、昔から語られるテーマとして、「やさしい先生」になるべきか「こわい先生」になるべきか、ということに、1度は悩んだことがあるでしょう。

あぷもに
あぷもに

やっぱりなるなら優しい先生よね!

きずあぷ
きずあぷ

学級崩壊したら大変!それならこわいと思われた方がいい!!

「やさしい先生」と「こわい先生」、それぞれのメリットデメリットなどを改めて見ながら、個人的ではありますが一つの結論を伝えさせていただきますね。

結論から申し上げますと、「やさしい先生」になるべきです!

では、詳細を見ていきましょう。

やさしい先生のメリットとデメリット

まずは優しい先生になることのメリットとデメリットを具体的に見ていきましょう。

メリット

やさしい先生のメリット
  1. 子ども(生徒)と距離が近くなりやすい
  2. 先生と子ども(生徒)の双方に心理的抑圧が小さい
  3. 叱った時に大きなギャップが使える

1.子ども(生徒)と距離が近くなりやすい

これは、子ども(生徒)の立場に立てば明確なことでしょう。目の前にいつも笑顔でにこやかなやさしい先生といつも怒っているようなこわい先生の2人いて、どちらかに相談しなければならないのなら、おそらく多くの子ども(生徒)はやさしい先生に相談することでしょう。

そしてそれは学齢が低ければ低いほどその傾向は顕著になります。

子ども(生徒)の内情を知っておくべき情報とする場合、相談や世間話などの機会が少なくなるということは致命的です。その機会が少なくなればなるほど、信用・信頼されるチャンスが減るということになります。

子ども(生徒)達は、信用していない大人には決して自分のことを伝えたり漏らしたりはしませんから。

2.先生と子ども(生徒)の双方に心理的抑圧が小さい

そもそも「こわい先生」であることがごく自然な方、あるいはたとえ演じていたとしてもむしろハマるというか、全く苦にならない先生にとっては当てはまらないでしょう。しかし、「なめられないために」などと少々無理をしてでも「こわい先生」を演じることは先生にとっては、精神的に決して良好なこととは言えません。

きずあぷ
きずあぷ

こわい先生を演じるのも疲れたな・・・

また、子ども(生徒)の立場からも目の前の先生がいつも怒っていたり、話しかけづらいこわい先生であれば、常に心理的に抑圧された状態にあると言えます。

これは健全な心の成長に決してプラスとは言えません。

感情的になっていたとしてもそうでなくても、周囲を威嚇したり、負のオーラを発し続けるということは双方にとって大きな負荷となりえます。

つまり、ごく自然にやさしい先生であり、やさしい自分であることは、自分自身にストレスを感じることも少なく、子ども(生徒)も抑圧されることがありません。

もちろん、最初に示した通り、無理矢理「やさしい先生」を演じることが苦痛な方にとってはその限りではありませんが。

3.叱った時に大きなギャップが使える

怖い先生はいつも「こわい」ので、小さな出来事も大きな事案もいつも子ども(生徒)達は「怒鳴られる」と感じてしまうのです。

きずあぷ
きずあぷ

いいかげんにしろー!

しかし、本当に叱るべき時というのは、ごく限られます。

個人的には2つ挙げられます。

1つ目は「心身が傷つけられた時、あるいは傷つけられるおそれのある時」です。

心身の「安心・安全」が脅かされる時、といってもいいでしょう。

そして2つ目は「他者の権利を阻害する時」です。

人権侵害にあたる、ということですね。

ここぞ!という、叱るタイミング
  • 心身が傷つけられた時、あるいは傷つけられるおそれのある時
  • 他者の権利を阻害する時

いじめであったり、授業の妨害などでしょうか。また、虚偽もここに含めて考えていますね。

こういった時には非常に厳しく接する必要があります。

いくら普段温和でやさしい先生であっても。

そういった機会に、普段とは違ったとても厳しい一面を見せる。

子ども(生徒)たちにとっては普段と打って変わって、見たことのない表情・声色・視線・所作・・・。

これらすべてが全くの新鮮であり、何より大きなギャップとなって子ども(生徒)の心や印象に突き刺さります。

効果絶大!クリティカルヒット、というやつですね。

それだけに、子ども(生徒)達には「普段やさしいあの先生がこんなに怒るなんて・・・」とより強く印象に残し、指導を効果的にすることができます。

ギャップを極端にする必要はありません。あまりにこわいとギャップどころか恐怖を与えてしまい、何を言っても結局伝わらないことになってしまいかねませんから。

デメリット

優しい先生のデメリット
  1. 距離が近いゆえに舐められやすい
  2. 保護者に甘すぎると思われる
  3. 厳しさを同居しないと学級崩壊につながる

1.距離が近いゆえに舐められやすい

あぷもに
あぷもに

やっぱり、なめられてしまっているのかな??

これはメリットと表裏一体のデメリットと言えるでしょう。やさしいがゆえに多くの子ども(生徒)にとっては受け入れられやすいものの、一部のおヤンチャさんには格好の餌食にされてしまう危険性も。

「乗り越えられる」なんて表現することもありますね。

こうなってしまっては関係性を取り返すのは相当厳しくなりますね。

2.保護者に甘すぎると思われる

あぷもに
あぷもに

保護者になんて言われるか・・・心配!

「やさしい先生」はやはり他の先生に比べて叱る場面が少なくなりがちです。

そうしてそれは、これまで学級の内外で繰り返されてきたおヤンチャな子ども(生徒)への叱責の数にも如実に現れます。

その事実は子ども(生徒)というフィルターを通し、保護者に伝わり、「あの先生はやさしいけど、厳しく叱ってくれない先生」であったり、「ヤンチャな子(生徒)を指導できない先生」なんてレッテルを貼られてしまうことになりかねません。

保護者に「甘すぎる」と言われないに越したことはないですが、言われてしまった時には確たる信念を持って説明できる術がほしいものです。

3.いつかは学級崩壊につながる

きずあぷ
きずあぷ

学級崩壊したら元も子もないよ!

多くの先生が「こわい先生」を演じざるを得ない最大の理由がここにあるのではと感じています。

気を緩め、受け入れすぎることで飲み込まれ、ついには過剰な振る舞いを容認し、咎め、指導することが困難な状況に陥ってしまいます。

そうなると精神的に安寧することはほぼ不可能と言っていいでしょう。

心が蝕まれ、力のない自分と同僚の諸先生方にかかる迷惑などの自責の念に押しつぶされ、病休を取らざるを得ず、最終的には退職に至るケースも。

学級崩壊はその中心的には子ども(生徒)が原因ですが、そんな子ども(生徒)にしてしまっている要因は、やはり先生にもあるんだとなってしまいます。

学級崩壊が起これば、その被害は先生にとどまらず、その学級の多くの子ども(生徒)とっても、学年の他学級にとっても、そして学校全体にとっても不利益しか生みません。

これだけはなんとしても避けなければならない、と感じている先生は非常に多いのではないでしょうか?

こわい先生のメリットとデメリット

一方「こわい先生」のメリットとデメリットも詳しく見てみましょう。

メリット

怖い先生のメリット
  1. 威厳が感じられ、子ども(生徒)に舐められることが少ない
  2. 学級や授業を掌握しやすい

1.威厳が感じられ、子ども(生徒)に舐められることが少ない

「やさしい先生」の裏返しになりますが、子ども(生徒)に舐められる、そして乗り越えられる危険性は極端に少なくなるでしょう。

最悪の状況さえ回避できるのであればと、こちらを選択する先生の気持ちもわからなくもありません。

2.学級や授業を掌握しやすい

先生が怖いと、子ども(生徒)の自由な発言が極端に減ります。

子ども(生徒)たちが先生の顔色を常に伺い、怒らせないように、叱られないように行動するからです。

そのため、授業は先生の思う通りのレールに従って進みやすく、学級も見事にコントロール下に置ける確率も上がるので、掌握しやすくなります。

きずあぷ
きずあぷ

確かに、無駄な発言や反発も少ないし、安心できる・・・

しかし、子ども(生徒)たちの本当の心の内側まで掌握できているのかどうかについては定かではありません。

きずあぷ
きずあぷ

でも、これって何か違う!子ども達は先生の言うことさえ聞いていればいいの??

デメリット

こわい先生のデメリット
  1. こわいゆえに、子ども(生徒)から近寄られ難い
  2. 生活指導及び生徒指導の重要なポジションを任されやすい
  3. 怒りに感情を支配される可能性がある

1.こわいゆえに、子ども(生徒)から近寄られ難い

きずあぷ
きずあぷ

こわすぎて近寄られないのもちょっと困るなぁ・・・

「こわい先生」はやはりどうしても子ども(生徒)との距離が遠くなりがちで、近寄りがたい雰囲気になります。

さながら『十戒』のモーセのようです。廊下を歩いていると、子ども(生徒)たちは下を向いて両壁に寄って道が開きます。
ちょっと極端すぎるかもしれませんが笑

子ども(生徒)と正常なコミュニケーションを取らず、支配欲は満たされているのかもしれませんが、このような状態では教師としては心寂しいものがありますね。

2.生活指導及び生徒指導の重要なポジションを任されやすい

こわい先生はやはり発言(の影響)力があることが多いのです。それは、誰もが手を焼くようなおヤンチャな子ども(生徒)の相手をさせられるからです。

そして、その結果一目置かれたりして、生活指導や生徒指導のポジションに据えられてしまいます。

きずあぷ
きずあぷ

・・・。

ただ、これは人によってはメリットかもしれませんが笑

3.怒りに感情を支配される可能性がある

指導する機会が頻繁になってくると、相手が異なっていても似たような事案で「また〜◯◯」なんて言ってしまったりします。その相手の子ども(生徒)にとっては「また」でも何でもないにもかかわらず。

さらには感情に流され、次第に「怒る」と「叱る」の境界線が曖昧になってきます。

「叱る」は論理が前面で感情は裏側。つまり冷静に、です。「怒る」は感情が面です。論理はあってもなくてもその感情に教師自身が振り回されてしまっている状態です。

こうなってしまっては思わず「体罰」なんかにつながってしまうことも。最悪の場合、懲戒免職もありえるのが今の時代です。

もちろん感情が前面に出ることはいけないことではないのです。

感動的な場面で泣いている先生(卒業式など)には子ども(生徒)も感情移入しやすいです。また、感情的な先生ほど子ども(生徒)からすれば自分達と本気で向き合ってくれているんだと思いやすいものです。

しかしながら、少なくとも「怒り」の感情だけは先走ってはいけません。取り返すのつかないことになりかねませんので。感情のコントロールには十分に気をつけたいものです。

怖い先生になるべきだという意見

ここからは逆説的に反対意見から反論を踏まえつつ、個人的結論を肉付けしていきたいと思います。

その1「優しいだけでは子ども(生徒)に舐められる」

きずあぷ
きずあぷ

やさしいだけだと、バカにされちゃう・・・

その通り、「優しいだけ」では舐められてしかるべきでしょう。

つまり、優しい「だけ」であってはいけないということを示唆しています。

優しさと「厳しさ」をこそバランスよく併せ持つことが重要なのです。

でもやはり、子ども(生徒)達の反発はこわいものです。

一方、「こわい先生」は果たして子ども(生徒)たちに舐められていないのでしょうか?

その結論を持っている先生は少し視野が狭いと言わざるを得ないかもしれません。

子ども(生徒)たちは先生のいないところでたくさん陰口を言っています笑

そしてその陰口には先生を悪く言い、嘲り、侮るものがたくさんあるのです。

やさしくても怖くても、それ一辺倒では底が知れていると結局侮られ、舐められてしまうのです。

子ども(生徒)達の反発を恐れてのやさしさ一辺倒・・・それは「優しい」ではなく、「易しい」つまり安易なだけの先生ですね。

あぷもに
あぷもに

子ども(生徒)のことを思った厳しさこそ、本当の優しさとも言えますよね。

奥行きのある、深みのある、人間性の富んだ先生にこそ目指すべき姿があると私は思います。

その2「学級崩壊になってしまっては元も子もない」

もちろん学級崩壊が起こってはいけません。子ども(生徒)たちに甚大な被害が及びます。

ただ一つ言えることは、どの先生も学級崩壊を起こしたくて起こしているのではない、ということです。

とはいえ、「こわい先生」ならば間違いなく学級崩壊には至らないのでしょうか?

きずあぷ
きずあぷ

学級崩壊が起こっているのは、いつもやさしい先生のクラス??

そんなことはありませんよね。

むしろ、私が見てきた中では怒りすぎるがゆえに子ども(生徒)たちの心が離れ、学級崩壊につながるケースを多々見てきました。

あるいはその年は乗り切っても、次年度担任・担当が変わり、叱れない教師にたまたま当たると、そのギャップと昨年度の鬱憤で子ども(生徒)たちは大暴れをしてしまいます。

それを見て、「こわい先生」は学級崩壊を起こした教師に対して「力がない」「厳しくしないからだ」などとのたまうのです。

原因が自分にあるとも気づかずに。

自分の思い通りにならない、指導が入らない。だから叱る、怒る。そしてさらに反発される。余計に指導に力を入れる。

この悪循環のループから抜け出しましょう

そもそもの考え方を変えましょう。子ども(生徒)は自分の思い通りになる生き物ではありません笑。そして、少々のことで怒ったり叱ったりする必要もないのです。

もちろん必要な場面はあります。しかし、感情に任せるのではなく、行き過ぎず、冷静に自分で考えさせてあげましょう

きずあぷ
きずあぷ

叱る、怒るがダメなんじゃなく、行き過ぎた指導がダメなんだってことね。

大事なことは子ども(生徒)自ら選び取り進ませること。教師は指導者ですが、支援者であって必ずしも先導者である必要はないのです。

3.保護者からの「厳しくしてほしい・叱ってほしい」の要望

懇談会などの際に保護者と接し、話す機会があります。

そんなときに、「先生は優しいと聞きましたけれど、もう少し厳しく叱ってほしいです」や「昨年度の先生はもう少し厳しく叱って指導してくれましたが・・・」などといったニュアンスのことを言われてしまうことがあります。

何を隠そう、私自身がそうです。

あぷもに
あぷもに

先生は「甘い」って言われちゃったよ・・・

しかし、これはあくまで子どものフィルターを通しての保護者からのご意見。

貴重なご意見ですから謹んでお受けしますが、ハッキリ言って検討には値しません

言われて態度を変えるなら、はじめから「こわい先生」でも何にでもなってしまうべきです。

途中で態度を変えることはもっとも子ども(生徒)の信頼を失う行為に他なりません

つまり、聞く耳を持たない、というよりむしろ、参考程度に聞き流しておけばいいのです。

現在の指導方法で子ども(生徒)がより悪化してしまうようなら、そのときに検討してみればいいのです。

可能であれば保護者に、「やさしく」そして「叱らない(ただし、叱るときは叱る)」理由を明確に丁寧に説明差し上げることができればいいですね。

それでも優しい先生になるべき理由

理由①子どもを変容させる可能性が高いのは「やさしい先生」だから

これまで十数年教師をしてきて、多くの子どもたちの変容する姿を目の当たりにしてきました。

そして、その子どもたちがどの条件下で変容するかといえば、「自らに目標設定ができたとき」「周囲の人間による環境変化によってです。

子ども(生徒)が変容する条件
  • 自らに目標設定ができたとき
  • 周囲の人間による環境の変化

「こわいだけの先生」に子ども(生徒)に目標設定を持たせることは難しいです。多くの場合は押し付けに他なりません

頭ごなしに叱るのではなく、子ども(生徒)と対話をし、考えを引き出し、自らの課題を見つめさせることで初めて自分の目標設定が出来上がるのです。

これは「こわい先生」にはなかなかになし得ないことです。

きずあぷ
きずあぷ

「目標を持ちなさい!」と言われて、持てるものでもないよね・・・

また、子ども(生徒)たちはその関係性の中で自分自身をアップデートしていきます。

その関係性が歪(いびつ)で抑圧されたものであるとするならば、それは健全なものとは言えないでしょう。

少なくとも「やさしい先生」であれば、6割の子ども(生徒)を変容させることができる可能性があります。

あるいは変容につながるよう心を揺り動かすことができます。

なぜなら、もっとも寄り添える可能性があり、心理的障壁が少ないため、言葉が届きやすいからです。

そうすれば、パレードの262の法則曰く、集団心理として働き、全体として良い方向へと導ける可能性が高まるのです。

教室の6〜8割を良い方向へと変容させることができるのならば、残りの数割も変容していく可能性が高いのです。

あぷもに
あぷもに

気になるあの子も「いつかは変わる」と信じて!

もちろん数ヶ月〜1年を費やしてもその結果が出るとは限りません。しかしながら、その環境は次の1年や数年先の種まきとなります。

いつか花咲く時を願い、今を見守ることは決して無駄ではありません。何も全ての結果がその決められた期間内に現れなくてもいいじゃありませんか。

経済社会と異なり、ある意味教育という聖域の、全てを数字で捉えられない点での1つのメリットと考えることができます。

理由②無理して「怖い先生」になるのは、先生と子ども(生徒)双方にとってストレスでしかないから

やはり無理をすることは人間の精神衛生上良いことではないです。

また、人は自分を映す鏡とも言われます。いつも他人を叱ったり、怒りに支配されてしまっているということは、相手も自分に同様のことを感じている可能性が高いということです。

人間は社会的な動物ですから、周囲の人間から嫌悪感を抱かれ続けることは多大なストレスとなりかねません。

また、頻繁に叱られたり、場合によっては怒鳴られたりすることは、大きな負荷となります。常に緊張感にさらされていることになりますので。

きずあぷ
きずあぷ

お互いが抑圧された中だと、きっと相手のことを嫌いになっちゃうよね・・・

双方にとってストレスしか生まない状況は、決して良いとは言い難いものです。

理由③「怖さ」と「厳しさ」は似て非なるもの

一方、それでもやはり「やさしい」だけでは指導が効果を発揮しないことももちろんあります。

また、組織全体として見たときに、全員やさしい先生だけならうまくいかないのではないか、ある意味恐怖の対象となる教師がいないと子ども(生徒)達の歯止めがきかないのではないか、との懸念もよく言われることです。

ここで勘違いしてはならないのは、子ども(生徒)たちにとって「こわい」と「厳しい」は似て非なるもの、ということです。

子ども(生徒)達にとって、怒鳴られたり、圧倒的な力(腕力だけの話ではない)によって押さえつけられたりすることが「こわい」ことです。

それに対し、「厳しい」というのは簡単に言えば「許さない」ということです。何もありとあらゆることを「許さない」わけではありません。

間違っていることは間違っていると、正すべきことは正すと、厳格に接するということです。実はそこに感情は必要ないのです。

もちろん人間ですから、「許し」は必要ですが、厳格な態度をこそ「厳しい」と表現します。

いつもいつも許してばかりはいられませんが、明確な厳しさこそ、優しさと同居できる方法です。

何よりその明快さが子ども(生徒)達の支持を集めます。

言ってることがすぐ変わる先生、言ってることとやっていることが違う先生は子ども(生徒)達はすぐに見抜きますし、何より信用・信頼されません。

目指すべきは、普段から優しいながらも時に厳しく、感情をうまくコントロールできる先生ではないでしょうか。

まとめ

「やさしい先生」にも「こわい先生」にもメリットとデメリットはそれぞれ確かにあります。

しかし、やさしい先生にこそ子ども達を大きく変容させる可能性があります。

また、先生自身と子ども(生徒)双方の精神安定上も好ましいです。

あとは如何に「厳しさ」を同居させるかです。

譲れる部分は譲ってもいいですが、どうしても越えさせない一線は厳格な態度を示すべきです。

少なくとも、

「心身が傷つけられた時、あるいは傷つけられるおそれのある時」

「他者の権利を阻害する時」

これらの場合には絶対に退いてはなりません。

やさしく子ども(生徒)達を見守りながら、日々の教育活動に勤しみたいものです。

そして、今よりも一歩でも前に進むために、共にがんばりましょう!

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