子どもと教師の信頼関係は、どうすれば結ばれるのでしょうか?
そもそも、どういった状態であれば、子どもと教師とが信頼関係にある、といえるのでしょうか?
信頼関係の意味は
「信頼関係」を辞書で調べると…
相互に相手のことを信頼し合っている関係、信頼することができるような関係、などという意味の表現
とあります。
そしてさらに「信頼」とは…
信じてたよること。たよりにできるとして信ずること。
と、あります。
子どもと教師の信頼関係
よく見る子どもと教師の姿で次のような例が挙げられます。
子どもと仲良く遊んでいる姿
子どもが先生の仕事をこなしてくれる姿
子どもがいろいろと先生に相談している姿
これらは子どもと教師が信頼関係を結べていると言えるでしょうか?
私は少し違和感を感じます。
子どもの側から見たときに、ただ楽しくて…がんばりたくて・あるいは認められたくて…他に話せる人がいないから…
などと、そうでないかもしれませんが、そのように感じてしまうこともあります。
私が考える信頼関係とは、
子どもがその教師から学びたいと感じている姿
教師が目の前の子ども達一人ひとりをよく見、成長させてあげたいと心から願う姿
いま現在の考えではこのように思っています。
信頼関係の状態
要はその人(教師)を見て、憧れ、教わりたい、学びたいと内なる気持ちを持っている状態なのではないでしょうか。
ただ楽しいだけではなく、ただ自分を認めて欲しいだけではなく、ただ話しやすいからだけではなく、自分の成長のために学ぼうとする姿こそが信頼関係に当たるのではないでしょうか。
そして教師は、目の前の子どものために全力を尽くしている姿なのではないでしょうか?
教師だって1人の大人です。
お金のために働いたっていい。だってお金がなかったら生活できませんから。
教職はただでさえ大変な仕事。そんな仕事の端々を子どもが手伝ってくれるならそれもいいですよね。
教師だって打算はあります。テクニックだって使って、より仕事をしやすく工夫はします。
しかし、今この一瞬・この1年のことのみならず、1人ひとりの子ども達に向き合い、長き将来にわたっての成長の礎となることを促すために、全力を尽くすならば、そこには子ども達に対する信頼が生まれていないでしょうか?
子どもと教師は信頼関係を結べるのか?
では、子どもが果たしてそんな風に教師を見てくれるでしょうか?
「先生から学びたい、教わりたい」場合によっては「先生のようになりたい」なんて。
結論から言うと、子どもを変える・他人を変えるのは…無理ですね。変わるのは自分です。
アドラー心理学であり、原因自分論ですね。
つまり、自分が変わることで、相手(子ども)も変わるということです。
相手(子ども)から信頼されるのを待ってはいけない。
仲良く遊び、よく話し、一見温かい空気感をすべて信頼関係と規定しないほうがいい。
信頼関係はやはり教師の方から紡ぐべきです。
いろんな子がいて、イライラもするし、悲しくなるときもある。
腹立たしくて、ついぶちまけてしまうことだってあるかもしれません。
でも、目の前の子ども達1人ひとりのために、成長を願って日々を過ごしてください。
そのために全力を尽くしてください。
それが双方の信頼関係が成り立つ第一歩となると、今まで経験してきて感じているからです。
まとめ
私が考える教師と子どもの信頼関係とは
これらが、双方に成り立つ状態のことだと思っています。
きょうはそんな精神論でした。
そんなことはもう知っている!すでに実践している!
というお叱りも受けそうですが、皆様と共有し、自分自身の現在の備忘録としても残しておきたかった、という思いがあります。
今日よりも一歩でも前に進むために、共にがんばりましょう!
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